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バイオグラフィー

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今に至るまでの私の前半生を綴ってみました。

私がリズムに興味を持ったのは5歳くらいの頃だったと思います。親と一緒に歩いている時に親が2歩進む間に自分が3歩進むと面白いリズムが生まれる事(所謂2拍3連)を発見しすっかり悦に入っていつもその歩き方をしていました。また、親と手をつないで歩いている時に私が強く握ると握り返してくれ、そこで生まれる様々なリズムも楽しかったのでおそらく相当しつこくやっていたと思います。

小学校は電車で20分程の所に通っていたので自然と電車の運転手志望となりました。学校からの帰りは必ず運転席にへばりつき運転手の技を研究していました。今はほとんどのレールが溶接されガタンゴトンという音があまり聞こえなくなりましたが当時は25メートルごとに継ぎ目があり規則的なリズムが聞こえました。時速何キロまで加速するか、何処でブレーキをかけるかなど細かく見ていましたので、いつの間にか継ぎ目の音を聞いているだけで時速何キロか分かるようになりました。また列車の通過時には空車時と混雑時の車両重量の違いから来る音色の変化を聴くのも楽しみでした。モーターが付いている車両とそれ以外の車両も重量が違うので音色が違います。当時一部の車両(JRの寝台車?)は台車の軸間が少し短いものがあり、そこで生まれるリズムの微妙な違いを聴くのは本当に楽しみでした。特に貨物車の場合、機関車には動輪以外にも車輪があり、貨物車両も1軸、2軸が混在する上に1両の長さもまちまちなので貨物車が通過するときにはかなり緊張し、そのあまりにも複雑なリズムに目眩を覚えました。

小学校も高学年になると皆遅くまで遊ぶようになり、私はランドセルを置きに一度家に帰り自転車で学校まで戻るという生活が始まりました。毎日のように往復20キロを走る内にどんどん速く走れるようになり中学1年の時ついに自動車を追い越しました。踏切で追い付いてきた運転手さんが「お兄ちゃん速いねぇ!」と褒めてくれたのをきっかけにその日以降車を追い越す事が日課になりました。

高校に入った時には競輪の選手になるのが目標でした。学校の行き帰りはもちろん、休日には秩父の正丸峠まで足を延ばしました。それと同時に友人からフォークギターを教わり学内でライブをやりました。当然勉強する暇はなく騙しだましの進級でしたが競輪の選手になる気持ちは固まっておりましたので先生の脅しも私には功を奏しませんでした。シンガーソングライターという淡い夢も有りましたが当時の私にはどこかで聴いたような曲しか作れませんでした。

高校3年の時にインターハイ予選で東京都1位の記録を出しましたが直後に出場した全日本選手権で事故に遭い記録を残せないまま高校卒業となりました。小学1年の時からプロ志向だった私は競輪学校の当時の入学年齢制限24才までの間に何かトライしてみようと思いました。夜な夜な思いを巡らせていた時に本当に雷に打たれたように5歳の時の「ドラム買ってぇ~」と大泣きしながら親にせがんでいた情景がフラッシュバックし「これだ!昔あんなにやりたかったんだから今でもやりたいはずダ!」と右も左も分からないまま競輪学校が1年でプロになることへの対抗心で1年でプロになるという目標を掲げ日夜練習に明け暮れました。

小学校時代の趣味が通学中に覚えた線路の継ぎ目の音を手足で再現する事だったのと自転車で磨き上げたスポ根のお陰で演奏技術はあっという間に身に付いたのでアマチュア時代はかなり周囲を驚かせました。

しかしプロの世界は厳しいもので本番中に「うるさいっ!」「ぜんぜん違うっ!」と散々怒られアマチュア時代の自信はもろくも崩れ去りました。要するに私の演奏は運動能力的に身に付けたものであり「音楽」ではなかったのです。これは大問題で個人練習をすればするほど音楽とかけ離れていってしまう訳です。

24歳でアンサンブル音痴を痛感した私は個人練習を一切やめ、自分で一日スタジオを押さえ、そこに次々と違うメンバーに来てもらい様々なジャンルの音楽を経験しました。それまでは音を出す場は常に仕事であり先輩方に囲まれミスの許されない緊張の中、音楽は楽しいものではありませんでした。気軽に音を出せるリハーサルバンドをたくさんやったことで「アンサンブル音痴」からは少しずつ脱却し始めました。

25歳の時に日本を代表するピアニスト市川秀男氏との出会いがあり、そこでの経験が今の私のベースになっています。それまでの私の音楽経験はほとんどの場合譜面があり、曲の構成は大体決まっていました。ですから私の演奏は常に大脳皮質を介しており非常に理性的でした。しかし、その感覚のまま演奏していると市川さんに全く付いて行けず、演奏中いつも「待ってくれ~!」と心の中で叫んでおりました。そんなことを何度も繰り返すうち、ある時ふと物凄く心地良い感覚が訪れました。まるで雲の上に出たような感覚で晴ればれとしていて抵抗感が全く無く、何とも言えない一体感を覚えたのです。ふと我に返った時一体何が起こったのだろうとキツネにつままれたような気分でした。一つだけ確かだったのは一体感を覚えている間、自分自身に全く意識が向いていなかったということです。それまでの私は常に大脳皮質で自分の演奏をチェックしコントロールしていましたので、あたかも天動説が地動説になるくらいの衝撃でした。それ以降良いアンサンブルをする為に如何に自分から意識を外すかが基本姿勢となりました。

28歳の時「岡本章生とゲイスターズ」というビッグバンドに入りました。それまでの私は多くても10人程度のアンサンブルしか経験がありませんでしたので、仕事によっては100人体制になる大所帯を纏めるにはあまりにも説得力不足でした。少人数を纏めるのは鼻歌でも出来ますが100人を纏めるには気合が必要です。また、発音タイミングがまちまちな楽器群に対して全てを抱含する「1拍が長い」演奏の必要に迫られました。また当時、生本番も多く時間調整の為に演奏中に誰にもわからないようにテンポを調整する技も身に付けました。

30歳でブルースのハイタイド・ハリスに出会い週1回以上コンスタントにライブを行いました。ハイタイドはブルースマンとして当然かもしれませんが本当に魂で音楽をする人で楽器としては音量が勝るはずの私が全く足元にも及びませんでした。例えるならば原付バイクで必死に走っている私のすぐ脇を大型トレーラーが追い抜いていくような圧倒的な迫力です。またいつも「お前のビートは遅い」と注意され、ニュアンスが違う時などは本番にも係らず「STOP!」と演奏を止められました。私も悔しいので全ての演奏を録音し、なぜストップが掛ったのかを分析し次回に臨むのですが必ず更に高い要求がありストップが掛らない日は滅多にありませんでした。結局1年半でクビになりましたが後任のドラマーは初めてスティックを持ってから3か月という女子大生でした。これはどういう事になるかとハラハラして見ていましたが何と!のっけからハイタイドが立ち上がるほどの演奏で「音楽とは何か」を思い知らされました。彼女はバイト先でいつもかかるBGMでブルースに魅了され店にあるドラムを曲に合わせて叩いていると言いました。私は彼女ほどブルースを愛してはいませんでした。それまで様々な経験を積んできた私でしたが「本当に音楽が好きか!?」という究極の問いに向き合わざるを得ませんでした。

ほぼ同時期にアフリカのコンゴ、マリ、タンザニアのミュージシャンと出会いアフリカンミュージックを経験。ここでも音楽を愛している事、心から演奏する事、グルーブ、ニュアンス等ここでしか得られない貴重な経験をしました。また天真爛漫、天衣無縫な彼らの人柄に触れ「人間とは何か」を考える機会を得ました。

現在私は半世紀以上を生きプロ生活も40年を越えました。今は心から音楽を愛し自分の人生を愛おしく思います。様々な経験をしながらも音楽を楽しめなかった20代。音楽の意味が分かり始めた30代。音楽を、人生を楽しみ始めた40代。そして今、私の知る限りの真実を皆さんにお伝えしていく事が使命であると感じています。演奏を通じて、レッスンや講演を通じて、皆さんのより良き人生の1ページになれれば幸いです。

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